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【アラベスク】  第7章 雲隠れ (後編)



第3節 流砂の底 [1]




 いったいどれくらいの時間が経ったのだろう?
 薄暗い部屋に横たわったまま、美鶴は虚ろな頭を動かした。
 蒸し暑さに身体は湿り、それが蒸発して体温を奪う。
 暑いのか寒いのか。どちらなのかわからない。
 わからないし、わかったところで、今は何の役にも立たない。
 両手足の自由を奪われた美鶴には、環境を快適に変化させる(すべ)はないし、快適にしてくれる存在も居ない。
 今は一人。他には誰もいない薄暗がり。
 お腹空いた。
 こんな状況で空腹を感じてしまうのは、殺されずに済んだ安堵(あんど)からだろうか?





「この世から、お前の中からも消してやる」
 その言葉と共にナイフを取り出す澤村優輝に向かって、里奈は発狂したように叫んだ。
「美鶴が死んだら私も死ぬ!」
 狂ってる。
 澤村優輝はもちろんだが、里奈だって正常とは言えない。
 だが、この状況で冷静を保てと言う方が無理か。
 不愉快そうな顔を向ける相手へ向かって、里奈は荒い息を吐く。
「美鶴を殺したら、舌噛んで死んじゃうからねっ!」
「お前にはできない」
「できるわ」
 ガタガタと身体を震わせながら、ただ瞳だけが異常に見開かれている。
「できる」
 繰り返す里奈に、優輝は舌を打つ。
「お前が悪いんだ」
「美鶴は関係ない」
 カチカチと鳴る歯が、本当に舌を噛み切ってしまいそうだ。
「お前が、逃げたりするからだ」
 その言葉に、里奈は瞳をやや緩め、視線を虚ろに落した。
「もう、逃げないから」
 涙が一筋、頬を流れる。
「もう逃げない。もう逃げないから、だから美鶴には何もしないで」
 どうしてこんなコトになってしまったのだろう?
 瞳を閉じると、もう一筋流れる。
「もう逃げないから。そうすれば美鶴は関係ないでしょう?」
 綺麗だな。
 その言葉と共に、優輝の胸中は急激に冷めた。それは冷ややかという感情とは違う。
 まるで、ド忘れした人名をやっと思い出した時のような、一種の爽快感。

 里奈は綺麗だ。

 だんだん消えていく、震える声をしばらく見つめ、やがて優輝はナイフをしまった。そうして両手を里奈の肩に乗せ、俯く顔を覗き込む。
「もう逃げない?」
 それはまるで慈悲深い母親のよう。怒りも、苛立ちも、狂気も失せた、ただ本当に一人の少年。
「本当に?」
 頷く里奈を引き寄せて、優輝はホッと息を吐いた。
 その瞳は虚ろだが、これ以上ないほどの至福も広がる。
 これでずっと、俺のモノだ。
 やがて優輝は身体を離すと、片腕で里奈を抱き美鶴を振り返った。
 そうして、だが何も言わずに部屋を出て行った。
 それからどれほどの時間が経ったのか? ほんの数十分のようでもある。だが、少し眠ったような気もする。







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